難だ躁躁

躁状態で書いた日記を公開する羞恥プレイをしています。

King Crimson "Doctor Diamond"に寄せて

最近、King Crimsonへの依存度合いが異常なほどになってきています。自分はDavid Crossの神経が擦り切れそうな演奏が好きなので、1973−74あたりのライブ音源を聴きまくっています。(他のどの年代の編成も好きですが)

するとよく耳に入るのがこの”Doctor Diamond”です。73年のライブではこれが最初に入って、Lark's tongues in aspic part1→MC(休憩)みたいな流れが多いですね。

結局アルバムには入らず未発表になりましたが・・・若干Easy Moneyと被るからかなぁ?後にMonkey BusinessというCDでスタジオ盤に近いものは出ています。

ともあれ自分はこの曲をとても気に入りました。

歌詞がばらばらで早口なので73年当時のものがわからないんですよね〜ネットに乗ってるのはどれも上記のCDのバージョンです。

詞の主体は地下鉄の運転手。

"Chaos in the street, to me it's all the same"

彼は時間だけを守って進み続けます。彼が対話をする相手は、 電車に乗ってくる他者ではなくて、「アンダーグラウンド」そのもの。

"Riding into smoky dark, where you are mine, and I am yours."

(自分にはそうは聞こえないですが)最後の歌詞です。地下に長く居ると、梅田地下街とか歩いてても思いますが、主体感が薄れてきます。自分がこの空間全体に漏れ出して、他者との距離も感じられなくなります。

以下がそういう感覚を描いてみた絵です。製作期間:思い立ってから2日。初めてアクリル絵の具を使いました。電車に乗り込んでくる人、行く先。重なって自分が前に進むのか、後ろを向いているのかわからなくなります。

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アンダーグラウンド・トレイン』 2018年5月

 

 

 

 

(由緒正しき)心の哲学の序の序

心の哲学

その起こり→認知科学「適切にプログラムされたコンピュータは心を持つ」

心の哲学に入門しようとした人がまとめたこの学問の歴史と主要な立場についての記事です。こんなん古いわと一掃する理系研究者は後を絶たないだろうが。。。自分は地道な思索は必要だと思っています。


参考 信原 幸弘『シリーズ心の哲学Ⅱ ロボット篇』序章

 

1 心をコンピュータで例える:古典主義

  • チューリング「コンピュータにいろいろな質問をして、その答えが人間のものと区別がつかなかったら、コンピュータは考えているといってよい」
  • ノイマン「脳とコンピュータでは物理的に違うから、コンピュータでは思考能力は持ち得ない」
  • 古典主義では、認知過程を心的表象の構文論的構造に基づく形式的な変形過程とみる。(計算主義)
  • 心的表象:「赤いトマト」→「トマト」+「赤い」のように分割できる、人類共通の思考の言語(一定の文法規則を持つ)によって記述される

★批判「身体性」

  • 人間は身体的な次元で世界に適応しており、その適応を定式化することはできない。
  • 中国語の部屋 ・形式的な過程によって意識が生まれることはあるのか(人間の脳内で起こっているような非形式的な過程が必要なのではないか)
  • プロトタイプ 「ネコ」というとき、カテゴリー内の成員は全て同等ではなく、典型的な成員とそうでない成員を意識している(心をコンピュータとみると説明しにくい)

 

2 心は神経ネットワーク:コネクショニズム

  • 心の状態に心的表象を認めるが、構文論的(文法的)構造を持たないとする。
  • 心は単純なユニット(ニューロン)を多数結合してできたネットワーク。
  • 一軍のユニットの興奮パターンが心的表象(分散表象) 「レタスは緑」という表象は、「レタス」と「緑」に別れない。重ね合わせ ・誤差伝播法 ネットワークの結合の重みを誤差から更新する→学習による認知能力の獲得を容易に説明できる。

★批判「認知能力の体系性」

  • 心的表象に構文論的構造をみとめない→思考能力の体系性が説明できない。
  • じつは構文論的構造が潜在しているという擁護→古典主義と何が違うのだ。

消去主義:命題的態度を認めない(コネクショニズムによって論拠が提供された) 素朴心理学にあるような、命題的態度を認める考えは、コネクショニズムとは相容れない。命題的態度は行動の原因であり、行動の原因は脳状態

→脳状態が命題を表さなくてはならない

→しかし脳内には構文論的構造はない

→命題を表せない

→矛盾

では、脳はコネクショニスト・システムだとして(これだけでは計算構造は持てない)、心的状態は古典的な計算から成立してるとしよう。つまり心は脳だけでは収まらない。

 

3 脳は心を超える:環境主義 1990年代~「心にとっては脳だけではなく環境や身体が重要」

  • ギブソン生態学的知覚論』 「我々が椅子を知覚する時、椅子からの刺激を脳の中で処理して椅子の知覚を形成するわけではなく、そのような処理過程を経ずに直接椅子を知覚する。我々は椅子を知覚する時、最初から、座れるものとして知覚し、そして座る(アフォーダンスの理論)」
  • ドレイファス「われわれは表象を介して世界とつながっているのではなく、身体レベルで技能的に世界とつながっている。」

→認知においては脳よりむしろ環境の方が大切 

「脳が外部の環境世界に記号を作り出し(紙に式を書いていって)、それを逐次的に処理していく(一つ一つの過程はコネクショニスト脳が行う)」

  • 認知の階層、並列型ロボット(ラスムッセンのSRKモデルのような感じかも) まず表象に基づかない提示の反射的な行動があり、そんな単純な行動を基盤にして表象に基づく高次な行動ができるようになる。(表象を介さずに)環境と技能的に交渉する能力がないと、高次の知能も不可能。
  • 力学的アプローチ 認知に表象は必要ない。力学的なフィードバック機構でなっている。その力学系は、脳と環境と身体のあいだの密接な相互作用によって起こり、脳の中で自立して起こるものではない。

 

★補足:コンピュータの「フレーム問題」 ・課題を遂行する際には、それに関与する事柄とそうでない事柄をくべつして、関与する事柄をもれなく考慮しなければならない。しかし事柄の数は膨大であるから、効率的に分析する方法を考えないといけない。 ・各課題ごとにその遂行に関与する事柄をあらかじめまとめておけばよいのでは?→どんな事柄が関与するのかは状況によって違う。たとえば、コーヒー入りのカップを台所からリビングに運ぶ時、天井の高さは普通関与しないが、非常に長身の人が運ぶ場合には関与する。(関与性の状況依存性)

ギブスンとスターリング、生の体験・カオス

サイベリアン

彼らが夢見た、バーチャル・リアリティによる人間の物質からの解放、情報端末で溢れかえった社会の、危険に満ちたアンダーグラウンドをジャングルジムみたいに遊ぶハッカーたち。

 

 

2017年現在こういうことは起こらずに、毎日報道される紛争・爆発テロのセンセーショナルなイメージが人々の生への執着を強め、ユビキタス社会は訪れたものの、彼らをネットワークにつなぎとめるのは「社会」の監視下にあるSNS。結局SF作家たちは、テクノロジーを支配する「力」の構造がこうも強大な「企業」になろうとは予測していなかった。彼らのサイバーパンクは、結局時間を超えることは叶わなかった。利潤追求型企業は、国家権力ほどアンダーグラウンドに甘くない。かれらはアンダーグラウンドを社会の一部に引っ張り出し、そこからも富を産もうとする。

 

 

でも、別にだからと言ってギブソンスターリングの小説が古くてつまらん、ということにはならない。かれらは未来を描こうとしたのではなく、コンピュータが支配するサイバー空間を夢見ていたのでもない。ギブソンは、コンピュータに「憑かれた」ような人に興味を持ち、それを題材に選んだ。ゲームセンターの筐体に「接続」されて熱狂する子供を観て、「サイバースペース」というアイデアを思いついた。ダグラス・ラシュコフ『サイベリア』から引用すると次のようになる。

 

彼らの意識の変革―マトリックスにおけるカウボーイの活動、人工知能、埋め込まれた人格―は、テクノロジーの祝福ではなく、生の体験を概念的に説明することを目的とした思考実験だ

 

 

カオス数学の最新理論や新しいテクノロジー、コンピュータ植民を小説や環境に取り込む一方で、サイバーパンクの作家たちはこうした技術革新が人間の経験の本質にどんな意味を持つのかを探求することに魅惑されている。

 

 

ギブスンはこう言う。

 

コンピュータで仕事をしている人間は誰でも、画面の向こうにある種の現実空間があるという直感的な信念を抱くようになるみたいだ。

 

 

サイバースペース。日々様々な国の。何十億という正規の技師や、数学概念を学ぶ子どもたちが経験している共同幻想」(ニューロマンサー

 

 

 

このように、「技術革新がもたらした、人間であるということの意味への新たな問を描いた」という点でサイバーパンク初期の作家たちの著作の価値が薄れることはない。

さらに、スターリングは(おそらくギブスンも)、生を「カオス」な数学として理解する。

 

世界が非線形でランダムなものだと理解することは、自分が特にこれと言った理由もなくカオスによってあっさり消滅させられる場合もありうることを意味している。じっさい、そういうことは起きるんだ。宇宙的な正義なんてものは存在しない。しかしその事実に直面するものは心を不安にさせる。人間の自尊心が傷つくからね。

 

 

彼らの「カオス」、非線形的な世界観はその文体にも現れる。彼らの小説内での現実は、非線形なスタイルで開示される。時空間軸がごちゃごちゃに混じったポストSF的な文体は、単なる雰囲気作りでも味付けでもない。社会・世界・現実は連続的になめらかな進化を辿るものではないということを呼び起こさせる。

 

 

彼らは、人間の生を、普段と違う視点から経験する機会を与えてくれる。

(2017年11月9日)

 

 

 

(ってあら、最初は、「あり得たかもしれない未来」っていう視点から哀愁漂う古臭い未来について書こうとしたのに。。)

夜のキャンパス、秋、自転車、雨

2017 10/20
 日付はもうすぐ変わる。暫く直線が続くキャンパス、互いに重なりつつ車輪が4つ並ぶ。この、自転車に乗った2人組の男たちほど純粋に夜を謳歌しているものはいないだろう。呼吸の合間に無自覚にペダルが押し込まれ、座ったままの身体が水平に走る。管理された暗がりの中、この滑るような前進が、すべて予定されていた美しい調和の中にあるかのよう、眠りについた建物が彼らを見下ろす。彼らはゆっくりと流れていく校舎たちに目もくれず、ひたすら眠ることのない道路脇の常夜灯が、荒いアスファルトのささくれと一緒に彼らの体の一部となった焦げ茶色の歯車の回転をかわるがわる照らす。道の真中に植わった銀杏を避け、道路脇の植え込みと完璧な距離に付けたあと、彼らのヘッドライトはそれを自慢するかのように小気味よく左右に触れる。露に濡れる緑から光の円が照り返し、前を行く男が後ろに笑いかけるたび、その白い歯が閃く。返す声の生気は拡散することなく、穏やかに広がって彼らをまとう。その夜は小雨だったかもしれない。霧に吹かれたような均一な小滴が心地よく彼らの肩を濡らしたかもしれない。今この瞬間に、自分たちの生を疑わせない絶対性。過去とも未来とも切り離された淡い光の船が、周囲の闇に道を譲らせながら、秋の夜長を吸い取って緩やかに前進する。

『裏庭』

梨木香歩『裏庭』を読んだ。読み始めた時はあんまり合わんなと思いこんな文章を書くなんて想像していなかった。

 (技術的なことを言うと、ファンタジックな小説を読むのが久しぶりなのか文章から映像を思い浮かべる能力が衰えているのを実感して少し悲しくなった。)

 この話のテーマは、死であり、それに関連して傷という言葉も中心的に働いている。それがわたしがこの文章を書いている理由である。最近のわたしは不確定な死というものに対しどう接してよいのか悩む生活をしている。そもそもどうしようもないとか、そういうことはわかっているけど、どうして忘れて生きられよう?わたしにとって嬉しいのは、こういうテーマについて書く人が沢山いることであり、忘れて生きるのではなく向かって生きることを選んだ人間たちの考えに触れられることである。

 自分の傷から目をそらして、他人の傷を品評して生きようか?でもそうして鈍った自分の存在は、突然死の恐怖が残酷に照らした時、パニックに溶けて消えてしまうのではないか。それよりは、傷をうまく飼い慣らそう、そして自分の存在を浮かび上がらせながら生きていきたいものではないか。

 ではどうすればいいの、この質問をやめたとき、人は成長するとこの話は教えてくれる。自ら蓋をして目をそらし続けた醜悪な化け物と、現状を変えようと自分が求める鍵が同一のものであることを教えてくれる。ならば自分を苦しめる問いから目をそらさず、死の可能性と向き合って、その上で生きよう、運が悪くてくたばってしまっても、人に忘れられようとどこかで好きにするからって。

 最近わたしは毎日、生きていてそれが夢のようだ。生きていたってそれで何かあるわけじゃない、ちょっと楽しいだけだ。今日それが終わっても、ちょっと夢から覚めるだけだ、そんな感じがする。これはこれでいいのかな。でも、(2017年5月20日:ここで筆者は寝た模様)

平野川【回顧】

 自然というものはその真の姿をよそ者に見せる事を嫌うらしい。
この川にはカモが居る—友人と会話をしながら自転車でわたしの前を通った婦人はそう言ったが、平野川に居るのはカモだけではない。注意深く眺めていると、灰色のコンクリート固めの川岸によく映える黒の背中と純白の翼のハクセキレイや、大声で騒ぐ事に特化した地味なヒヨドリを見ることができる。その中でもわたしが憧れるのが、ビギナーズラックとでも言うべきか、初めてこの川を訪れた時—その時カメラは持っていなかった—川の周りのくすんだ地味な色に驚く程その白さを映えさせながら、悠然と立つシラサギ。
 初めて川を見渡した時、目にするのはのんびりとしたカモがのんきに浮力の恩恵を受けている姿だけだろう。人が初めて、彼らに積極的な興味を抱くのは、彼らが自らの、地味なイメージに見合わない大きな美しい翼をはためかせた時であろう。カメラを向けると、両手を合わせて作った器から、水がするりと逃げ出すように、水面はまた静寂に戻る。自然はこのように、われわれの興味をかき立ててはいなし、より一層追わせるという事に長けている。わたしの眼の前で尾羽から順に翼を翻し華麗にターンして見せたのは、実は普段から慣れ親しんだ鳩であった。その姿をなんとかカメラに収めたいと思うが、同時にそれが不可能であるかのようにも思える。
 その点ハクセキレイは、初めは冷たく情がないように見えるが、少し慣れると、気を許してくれるタイプだ。初め彼らの姿を捉えることが出来なかったが、見た目に似合わない洗練された技術で木々の間を器用に飛んで見せるヒヨドリの姿を追い続けた(結局写真には収められなかった)時間の間に、わたしにその、さながら山肌に映える雪のような色彩を見せる気になってくれた。不思議と、そうしてくるうちに、自分が自然と一体化してきたかのように感じられるかもしれない。
 しかしながら、彼女—西洋の言語では女性扱いされるのは納得だ—はわたしの心を弄ぶ事をやめたわけではなく、結局シラサギを撮影する事は叶わなかった。そして、わたしを再び川へ向かわせる。(2015/11/16)