ギブスンとスターリング、生の体験・カオス
「サイベリアン」
彼らが夢見た、バーチャル・リアリティによる人間の物質からの解放、情報端末で溢れかえった社会の、危険に満ちたアンダーグラウンドをジャングルジムみたいに遊ぶハッカーたち。
2017年現在こういうことは起こらずに、毎日報道される紛争・爆発テロのセンセーショナルなイメージが人々の生への執着を強め、ユビキタス社会は訪れたものの、彼らをネットワークにつなぎとめるのは「社会」の監視下にあるSNS。結局SF作家たちは、テクノロジーを支配する「力」の構造がこうも強大な「企業」になろうとは予測していなかった。彼らのサイバーパンクは、結局時間を超えることは叶わなかった。利潤追求型企業は、国家権力ほどアンダーグラウンドに甘くない。かれらはアンダーグラウンドを社会の一部に引っ張り出し、そこからも富を産もうとする。
でも、別にだからと言ってギブソンやスターリングの小説が古くてつまらん、ということにはならない。かれらは未来を描こうとしたのではなく、コンピュータが支配するサイバー空間を夢見ていたのでもない。ギブソンは、コンピュータに「憑かれた」ような人に興味を持ち、それを題材に選んだ。ゲームセンターの筐体に「接続」されて熱狂する子供を観て、「サイバースペース」というアイデアを思いついた。ダグラス・ラシュコフ『サイベリア』から引用すると次のようになる。
彼らの意識の変革―マトリックスにおけるカウボーイの活動、人工知能、埋め込まれた人格―は、テクノロジーの祝福ではなく、生の体験を概念的に説明することを目的とした思考実験だ
カオス数学の最新理論や新しいテクノロジー、コンピュータ植民を小説や環境に取り込む一方で、サイバーパンクの作家たちはこうした技術革新が人間の経験の本質にどんな意味を持つのかを探求することに魅惑されている。
ギブスンはこう言う。
コンピュータで仕事をしている人間は誰でも、画面の向こうにある種の現実空間があるという直感的な信念を抱くようになるみたいだ。
「サイバースペース。日々様々な国の。何十億という正規の技師や、数学概念を学ぶ子どもたちが経験している共同幻想」(ニューロマンサー)
このように、「技術革新がもたらした、人間であるということの意味への新たな問を描いた」という点でサイバーパンク初期の作家たちの著作の価値が薄れることはない。
さらに、スターリングは(おそらくギブスンも)、生を「カオス」な数学として理解する。
世界が非線形でランダムなものだと理解することは、自分が特にこれと言った理由もなくカオスによってあっさり消滅させられる場合もありうることを意味している。じっさい、そういうことは起きるんだ。宇宙的な正義なんてものは存在しない。しかしその事実に直面するものは心を不安にさせる。人間の自尊心が傷つくからね。
彼らの「カオス」、非線形的な世界観はその文体にも現れる。彼らの小説内での現実は、非線形なスタイルで開示される。時空間軸がごちゃごちゃに混じったポストSF的な文体は、単なる雰囲気作りでも味付けでもない。社会・世界・現実は連続的になめらかな進化を辿るものではないということを呼び起こさせる。
彼らは、人間の生を、普段と違う視点から経験する機会を与えてくれる。
(2017年11月9日)
(ってあら、最初は、「あり得たかもしれない未来」っていう視点から哀愁漂う古臭い未来について書こうとしたのに。。)