(由緒正しき)心の哲学の序の序
(心の哲学)
その起こり→認知科学「適切にプログラムされたコンピュータは心を持つ」
心の哲学に入門しようとした人がまとめたこの学問の歴史と主要な立場についての記事です。こんなん古いわと一掃する理系研究者は後を絶たないだろうが。。。自分は地道な思索は必要だと思っています。
参考 信原 幸弘『シリーズ心の哲学Ⅱ ロボット篇』序章
1 心をコンピュータで例える:古典主義
- チューリング「コンピュータにいろいろな質問をして、その答えが人間のものと区別がつかなかったら、コンピュータは考えているといってよい」
- ノイマン「脳とコンピュータでは物理的に違うから、コンピュータでは思考能力は持ち得ない」
- 古典主義では、認知過程を心的表象の構文論的構造に基づく形式的な変形過程とみる。(計算主義)
- 心的表象:「赤いトマト」→「トマト」+「赤い」のように分割できる、人類共通の思考の言語(一定の文法規則を持つ)によって記述される
★批判「身体性」
- 人間は身体的な次元で世界に適応しており、その適応を定式化することはできない。
- 中国語の部屋 ・形式的な過程によって意識が生まれることはあるのか(人間の脳内で起こっているような非形式的な過程が必要なのではないか)
- プロトタイプ 「ネコ」というとき、カテゴリー内の成員は全て同等ではなく、典型的な成員とそうでない成員を意識している(心をコンピュータとみると説明しにくい)
2 心は神経ネットワーク:コネクショニズム
- 心の状態に心的表象を認めるが、構文論的(文法的)構造を持たないとする。
- 心は単純なユニット(ニューロン)を多数結合してできたネットワーク。
- 一軍のユニットの興奮パターンが心的表象(分散表象) 「レタスは緑」という表象は、「レタス」と「緑」に別れない。重ね合わせ ・誤差伝播法 ネットワークの結合の重みを誤差から更新する→学習による認知能力の獲得を容易に説明できる。
★批判「認知能力の体系性」
- 心的表象に構文論的構造をみとめない→思考能力の体系性が説明できない。
- じつは構文論的構造が潜在しているという擁護→古典主義と何が違うのだ。
消去主義:命題的態度を認めない(コネクショニズムによって論拠が提供された) 素朴心理学にあるような、命題的態度を認める考えは、コネクショニズムとは相容れない。命題的態度は行動の原因であり、行動の原因は脳状態
→脳状態が命題を表さなくてはならない
→しかし脳内には構文論的構造はない
→命題を表せない
→矛盾
では、脳はコネクショニスト・システムだとして(これだけでは計算構造は持てない)、心的状態は古典的な計算から成立してるとしよう。つまり心は脳だけでは収まらない。
3 脳は心を超える:環境主義 1990年代~「心にとっては脳だけではなく環境や身体が重要」
- ギブソン『生態学的知覚論』 「我々が椅子を知覚する時、椅子からの刺激を脳の中で処理して椅子の知覚を形成するわけではなく、そのような処理過程を経ずに直接椅子を知覚する。我々は椅子を知覚する時、最初から、座れるものとして知覚し、そして座る(アフォーダンスの理論)」
- ドレイファス「われわれは表象を介して世界とつながっているのではなく、身体レベルで技能的に世界とつながっている。」
→認知においては脳よりむしろ環境の方が大切
「脳が外部の環境世界に記号を作り出し(紙に式を書いていって)、それを逐次的に処理していく(一つ一つの過程はコネクショニスト脳が行う)」
- 認知の階層、並列型ロボット(ラスムッセンのSRKモデルのような感じかも) まず表象に基づかない提示の反射的な行動があり、そんな単純な行動を基盤にして表象に基づく高次な行動ができるようになる。(表象を介さずに)環境と技能的に交渉する能力がないと、高次の知能も不可能。
- 力学的アプローチ 認知に表象は必要ない。力学的なフィードバック機構でなっている。その力学系は、脳と環境と身体のあいだの密接な相互作用によって起こり、脳の中で自立して起こるものではない。
★補足:コンピュータの「フレーム問題」 ・課題を遂行する際には、それに関与する事柄とそうでない事柄をくべつして、関与する事柄をもれなく考慮しなければならない。しかし事柄の数は膨大であるから、効率的に分析する方法を考えないといけない。 ・各課題ごとにその遂行に関与する事柄をあらかじめまとめておけばよいのでは?→どんな事柄が関与するのかは状況によって違う。たとえば、コーヒー入りのカップを台所からリビングに運ぶ時、天井の高さは普通関与しないが、非常に長身の人が運ぶ場合には関与する。(関与性の状況依存性)