難だ躁躁

躁状態で書いた日記を公開する羞恥プレイをしています。

平野川【回顧】

 自然というものはその真の姿をよそ者に見せる事を嫌うらしい。
この川にはカモが居る—友人と会話をしながら自転車でわたしの前を通った婦人はそう言ったが、平野川に居るのはカモだけではない。注意深く眺めていると、灰色のコンクリート固めの川岸によく映える黒の背中と純白の翼のハクセキレイや、大声で騒ぐ事に特化した地味なヒヨドリを見ることができる。その中でもわたしが憧れるのが、ビギナーズラックとでも言うべきか、初めてこの川を訪れた時—その時カメラは持っていなかった—川の周りのくすんだ地味な色に驚く程その白さを映えさせながら、悠然と立つシラサギ。
 初めて川を見渡した時、目にするのはのんびりとしたカモがのんきに浮力の恩恵を受けている姿だけだろう。人が初めて、彼らに積極的な興味を抱くのは、彼らが自らの、地味なイメージに見合わない大きな美しい翼をはためかせた時であろう。カメラを向けると、両手を合わせて作った器から、水がするりと逃げ出すように、水面はまた静寂に戻る。自然はこのように、われわれの興味をかき立ててはいなし、より一層追わせるという事に長けている。わたしの眼の前で尾羽から順に翼を翻し華麗にターンして見せたのは、実は普段から慣れ親しんだ鳩であった。その姿をなんとかカメラに収めたいと思うが、同時にそれが不可能であるかのようにも思える。
 その点ハクセキレイは、初めは冷たく情がないように見えるが、少し慣れると、気を許してくれるタイプだ。初め彼らの姿を捉えることが出来なかったが、見た目に似合わない洗練された技術で木々の間を器用に飛んで見せるヒヨドリの姿を追い続けた(結局写真には収められなかった)時間の間に、わたしにその、さながら山肌に映える雪のような色彩を見せる気になってくれた。不思議と、そうしてくるうちに、自分が自然と一体化してきたかのように感じられるかもしれない。
 しかしながら、彼女—西洋の言語では女性扱いされるのは納得だ—はわたしの心を弄ぶ事をやめたわけではなく、結局シラサギを撮影する事は叶わなかった。そして、わたしを再び川へ向かわせる。(2015/11/16)