難だ躁躁

躁状態で書いた日記を公開する羞恥プレイをしています。

『裏庭』

梨木香歩『裏庭』を読んだ。読み始めた時はあんまり合わんなと思いこんな文章を書くなんて想像していなかった。

 (技術的なことを言うと、ファンタジックな小説を読むのが久しぶりなのか文章から映像を思い浮かべる能力が衰えているのを実感して少し悲しくなった。)

 この話のテーマは、死であり、それに関連して傷という言葉も中心的に働いている。それがわたしがこの文章を書いている理由である。最近のわたしは不確定な死というものに対しどう接してよいのか悩む生活をしている。そもそもどうしようもないとか、そういうことはわかっているけど、どうして忘れて生きられよう?わたしにとって嬉しいのは、こういうテーマについて書く人が沢山いることであり、忘れて生きるのではなく向かって生きることを選んだ人間たちの考えに触れられることである。

 自分の傷から目をそらして、他人の傷を品評して生きようか?でもそうして鈍った自分の存在は、突然死の恐怖が残酷に照らした時、パニックに溶けて消えてしまうのではないか。それよりは、傷をうまく飼い慣らそう、そして自分の存在を浮かび上がらせながら生きていきたいものではないか。

 ではどうすればいいの、この質問をやめたとき、人は成長するとこの話は教えてくれる。自ら蓋をして目をそらし続けた醜悪な化け物と、現状を変えようと自分が求める鍵が同一のものであることを教えてくれる。ならば自分を苦しめる問いから目をそらさず、死の可能性と向き合って、その上で生きよう、運が悪くてくたばってしまっても、人に忘れられようとどこかで好きにするからって。

 最近わたしは毎日、生きていてそれが夢のようだ。生きていたってそれで何かあるわけじゃない、ちょっと楽しいだけだ。今日それが終わっても、ちょっと夢から覚めるだけだ、そんな感じがする。これはこれでいいのかな。でも、(2017年5月20日:ここで筆者は寝た模様)